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ポストモダンクラブ

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【レジメ】「顔」

9月度会合テーマ 「顔」
担当: 清水 知恵実(ちーぼー)
(注意)以下、文頭に>がある部分は、
     参考文献「顔の現象学」/ 鷲田清一著から抜き出して書いたものです。

1.なぜテーマとして「顔」を選んだのか?
みなさんは、毎日、どのくらい自分の顔を見ますか?
誰かを思い出すときに、名前とともに思い浮かべるのは、どんな部分ですか?
やはり、顔が先で、あとはその人の後姿や歩き方、言葉遣い、声などでしょうか?
今回、テーマの核となる参考文献 「顔の現象学」(鷲田清一 著 / 講談社学術文庫)にて、
著者である鷲田氏は、「他人との共同的な時間現象として出現する曖昧微妙な<顔>を、
現象学の視点で捉える」ということをテーマとして、「顔」について様々な視点から迫っています。

2.「顔」ってなんだろう?
鷲田氏は著書で次のように言っています。
>人々は顔を隠さなくなった。顔がいたるところに溢れている。
>盛り場やオフィスに、ブラウン管の中に、
>雑誌の表紙に、電話ボックスのチラシや商店のポスターに……。
>ところが一方で、顔を感じる、顔に接するという経験が乏しくなっているような気もする。
>デパートに行っても店員の笑顔にはよく接するが、それが本当に顔なのかといえば、
>むしろ記号であるといった方が実感にあう。<顔>はいま、氾濫しているのか、
>それとも困難になっているのか。過剰なのか、過小なのか。

顔の類型化

*顔のことば…顔についての比喩的な表現
顔色を変える、顔から火が出る、顔を利かせる、面白い、
面影、面の皮が厚い、体面、面倒、顔を貸す

*平均化した顔…男女の顔写真を平均化すると、
           男女の性別を失った標準化した美しい顔となる。

*しょうゆ顔とソース顔(1988年 流行語として登場)

* C・Hシュトラウツ博士による、日本人の顔、3つのタイプわけ
日本人の人類としての祖型は、アイヌ型、モンゴール型、日本人型にわけられる。

わたしは、かれこれ7年以上、接客業の仕事(食品レジのチェッカー、雑貨屋さんの販売員)を
しています。今までにいろんなお客様に出会いました。
その中で、自分にとって、こころに残る温かい気持ちを与えて頂いたこともありますが、
もちろん、その反対に、嫌悪感を抱く場面も多々ありました。
そういう時は、自分の中では、笑顔がひきつっていると思っていました。
しかし、ある日、職場の方に言われたことで、どうかな~?と深く考えてしまったことがありました。
「清水さんって、ほんとに、今までに怒った表情をみたことがないよね。
なんでそこまで感情を平らに保てるのかと、いつも感心してるのよ。」
同じ職場の方は、良い意味で言って下さっているですが、わたしは、わたしなりに、感情を表に出して
いるつもりだったので…感情が表に出ないということは、なんか機械っぽいイメージがあって、
わたしは、職場では無意識に作った表情をしてしまっているのかなぁ…と感じてしまったのです。
作っている表情があれば、自然な表情というのもあると思うのですが、
それでは自然な表情ってどういう状態をいうのでしょうか?
わたしの、本当の顔って、どういう顔なのでしょうか?偽りの顔ってあるのでしょうか?
=顔の本来あるべき状態、つまり「素顔」という観念を前提している。
 そもそも「顔の向こう側」というものがほんとうに存在するのか。

><顔>はわれわれの社会では、つねに「だれかの顔」である。
>あるひとがだれであるかは、最終的には顔の同一性によって確認される。
>身分証明書や受験票の顔写真、行方不明者・身元不明者・指名手配の照会ポスター……。
>もちろんこれらの顔写真はだれかの「素顔」を撮ったものであって、
>仮面を被ったもの、「素顔」を覆い隠すほどに厚化粧を施したものであってはならない、とされている。
>しかし、「素顔」というのも、ほんとうはそのようなものとして自他の間で
>了解されている<顔>のことではないのか。

[化粧術批判] ガレノスの化粧術批判
身づくろいの技術(コスメティック)は医学の一部であり、化粧術(コモティック)とは異なる。
化粧の目的は、異様な美を実現することであり、医学の一部である身づくろいの目的は、
全身を全くありのままに保つことなのである。したがって、それは自然の美しさとなる。
(O・ブルジュラン「化粧散歩」より)

>何の加工も変形も施されていないような顔は存在しない。
>顔の自然とは一つの虚構であり、それはすでに侵犯されている。
>問題はだから、顔の可視性はなぜ別のものへと変換されねばならないか、
>あるいは、顔は何に向けて(あるいはどのような観念に憑かれて)変換されるのか、という点にある。
驚くほど緻密に加工・変形しながらも加工・変形しているという
その事実を抹消するような現代の化粧術である、
「ナチュラル・メイク」(=自然の制作)というテクニックにおいても、
同じ問題が浮かびあがる。化粧という、顔面の侵犯行為は、なぜその対象を侵犯しつつ、
同時にそれを顔の<起源>(「素」の顔)として仮構しようとするのか?

われわれがある顔を素顔としてとらえる時には、その背後に、一つの人称的な存在、
「だれか」(=人格)としての自己同一性と連続性をもち、
顔の外面性に対しては内面性としてとらえられるべき存在が透かし見られており、
そういうものとの関係の中で顔がとらえられているわけである。
顔はおそらくこのように<わたし>によって所有されることによって素顔になる。

ひとびとの差異をしるしづける<顔>は、皮肉にも、世界について、
あるいは自分たちについての解釈コードを共有する者たちのあいだで
はじめて具体的な意味を得てくるような現象だということがわかる。
その意味では<顔>ははじめから共同的な意味によって構成されているのであり、
またはじめから「われわれ」によって読まれるべきことばとしてあるのであって、
その意味では<顔>という現象は、それが「わたしの顔」となるまえに、
まずは共同性の様態なのである。
複数の解釈する者たち、そのキアスムから脱落したとき、
<顔>は崩れる。あるいは、失われる。

>顔はたしかに、作ること、とり繕うことのできるものである。
>が、作り、とり繕ったつもりになっているだけで、
>ほんとうはその作った顔、とり繕った顔を自分で見ることはできない。
>それは一生できない。
>その意味で顔は、わたしから遠く隔たれている。
>自分の意のままになるもの、自分の所有と操作の対象であると考えたとき、
><顔>という現象はわたしからもっと遠ざかる。
>皮肉にも、「わたしのもの」としてこの<顔>が他者に対して閉ざされてしまうからである。
>わたしだけのものとなることによって、わたしから遠ざかる。
>所有するということは、このようにはじめから自分を喪失する可能性を含んでいる。
>そういう喪失への不安が、ますます自己への密着(=所属adherence)への欲望をつのらせる。
>ひとは何かを求めているかぎり、その求められるものに翻弄=所有されてしまう。
>そこでひとは、反転の起こらない「絶対的所有」をさらに求める。
>所有の「苦しみ」はこのような所有のもつれからくる。
>《絶対的所有の夢》。夢としての自己一致である。
>われわれは自分の顔であることを願うのだ。
>これは、強いられる、と言い換えても同じことだ。


* E・レヴィナス
「わたしが<これなるもの>として隣人を指示する(designer)に先だって、
隣人のほうがわたしを召喚する(massigner)」

召喚=<顔>の切迫=対象としてではなく、あるいは別の主体としてでもなく、
               このわたしを撃ち、それを応えることを迫ってくる
               一つの強迫(obsession)として考えられている。

>顔を何かの現れとしてとらえる以前に、顔がわれわれをとらえる。
>そういう不意の、猶予を許さぬ「強迫」として顔はあるのであり、
>顔の所有者としての他者への意識はむしろそのその「強迫」にこそ
>動機づけられて発生するのであって、意識は「強迫」の薄められた一変様でしかない。
>そして他者は、そういう「〔何かとして〕現れることなき絶対的特異性」において
>わたしにかかわってくるのであって、まさに「わたしを召喚する者」であるということが、
>他者の現出(=<顔>)の特異性をなすというのである。

>他者の<顔>は、わたしの<顔>の対象化という統合の働きをすり抜ける。
><顔>は(自己自身の「表現」=表情としてではなく)自己自身の《痕跡》としてのみ可能である。
>そして、「強迫」としての顔の直接性のなかで、わたしはいつもすでに遅れているのである。
>顔は、まさに不在の現前、つまり「痕跡」としてのみ現れる。

>顔において、わたしは《消えることの現前》、《見えないことの見えていること》に触れるのである。
>そしてこのような意味での根源的な「遅れ」(retard)をレヴィナスは<顔>と呼ぶ。

><顔>は他者の<顔>を経由してでなければ「わたしの顔」とはなりえない。
>ある<顔>は別の<顔>との接触のなかで、「だれかの顔」となる。
>わたしを<顔>として存在させる他者の<顔>そのものは、
>わたしには見えない〔わたしの〕顔が誘いだしたもの。
>見えないものと見えるものとの交換が<顔>を呼び寄せたのだ。
>わたしが自分の顔を「もつ」というのは、わたしが差し向けられるべき他者をもち、
>他者と接触する悦びであるとともに、逃げること、場を外すことを許さないという苦痛でもある。
>つまり、わたしはいつもだれか(他者の他者)であり続けなければならないという苦痛である。
>「わたしたち」のうちのひとりとしての「わたし」がわたしに貼りついて離れないのである。
>そのとき、おそらく、わたしは自分の顔に所有されている。
>しかし、この苦痛は、わたしがそれを所有したことの反照してある。
>わたしは自己のうちに閉じこもることができない。
>他者によるわたしのたえざる「召喚」、
>その中で、わたしが他者によって引きずり出される。
>まさに他者に指されることによって。
>「おまえはだれか」という問いを突きつけられることによって。
>このとき、わたしは「わたしは何か」ではなく、
>「わたしはだれか」という問いに向き合わされる。

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「顔の現象学 ~見られることの権利~ 」 / 鷲田清一著
「現象学入門」 / NHKブックス / 竹田青嗣著
「ファッションの意味を読む」 / グリーンアロー出版社 / 千村典生著
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by pmcblog | 2003-09-12 15:58 | レジメライブラリ
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