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【レジメ】憧憬のエロス

“憧憬”のエロス


 エロス、という言葉には様々な受け取り方があるようだか、プラトンはこれを「イ
デアの世界への憧れ」と定義している。プラトンはいくつかの対話篇の中で、理想と
するものや愛し求めてやまないもののことを「よきもの」と呼んでいるが、彼が「よ
きもの」という時、いつもそこには「イデア」の影(いや、光かな)が見え隠れする
のである。そして、永遠の「よきもの」、その源であるイデアを愛し求める気持ち
(もしくは達成されたときの歓びも含め)をエロスと言った。決して今で言う肉体的
快楽の意味とは限らないわけである。
 そして、私が最終的に論じたいテーマは「エロスの充足」と「幸福」との関係であ
る。

 最初に、「憧憬」の種類を大きく二つに分けてみたい。
・願望(羨望)的憧憬  まだ手に入れていない「よきもの」への憧れ・・・desire
・懐古的憧憬  今はもう失ってしまった「よきもの」憧れ・・・nostalsia

 願望的憧憬とは、「まだ手に入れていないよきもの」への憧れである。憧れ、とい
う気持ちの中には、もちろんそれを手に入れることを望まない憧れもあるだろう。し
かし、いつしか手にはいることを望むか否かに関わらず、いまだかつて自分の手に
入っていたことがないという意味では同じなので、ここでは一緒に扱う。
 そして、懐古的憧憬とは、「かつては自分の手もとにあったのに、今は失ってし
まったもの」への憧れである。これもやはり、もう一度取り戻したいと思うか、ただ
懐かしむだけで満足できるかという差はあれ、その失ってしまったものを「よきも
の」だと考えている場合は全て含むものとする。


1.願望的憧憬について
 まだ手に入れていないものや場面への憧れには以下の三つのタイプ(段階)があ
る。

A. 決して手に入らぬものへの憧れ
B. いつしか手に入れたいという憧れ
C. 所有を望まぬ憧れ

 場合によって異なるばかりではなく、同じ人の同じものに対する憧れが状況によっ
て変化することもあるだろう。これを決定づけるのは、その人と対象となる「よきも
の」との距離感にある。この距離感は実際の物理的距離感もあれば、その人の気持ち
によって左右される心理的距離感もある。物理的距離感が縮まった途端に、心理的な
距離感が遠のいてしまうということはよくある話である。
 Aは、「手に入らぬが故の憧れ」と言い換えることもできるだろう。物理的距離感
がもっとも大きく、そのことが原因で生まれるタイプの憧れである。
 Bは、心理的距離感が積極的に物理的距離感を克服しようとするタイプの憧れであ
り、最も能動的な憧れと言える。羨望という概念が多分に含まれる。人によってはA
との区別が付きにくい(わがままな人ほど・・・?)。
 Cは、自己完結した憧れである。自ら望んでそうしていることもあるし、AやBの憧
れが、防衛反応によってこれに変化してしまうこともある。心理的距離感が最も大き
い。
 

2.懐古的憧憬について
 かつては自分のものであった、もしくは自分のすぐ側にそうとも意識せずに存在し
ていたのに、今は失ってしまった・・・そんな「よきもの」を愛する気持ちを懐古的
憧憬とする。悲しいことに、これらの対象については失ってしまってから初めてそれ
が「よきもの」だったことに気付くことが多いようである。それをもう一度取り戻し
たいと強く願う時もあれば、ただ懐かしむだけで満足できることもあるだろう。そし
てやはりこれも、前者の想いが実現不可能な場合に後者の思いに変わらざるを得なく
なるというのもよくあることだろう。


3.『リュシス』にみるふたつの憧憬
 プラトンは、初期の対話篇『リュシス』の中で、この二つの憧憬についての考察
を、ある平凡な青年が才色兼備で評判の美少年リュシスに恋い焦がれる様子を題材に
してソクラテスに語らせている。これは一見、美少年を自分のものにしたいという願
望的憧憬の物語に見えるかもしれないが、もともとイデア界に存在する「人間のイデ
ア」だった頃なら持っていたはずの善と美を現世で擦り減らせてしまった普通の大人
が、まだ人より多くそれらの要素を残している恵まれた少年リュシスに惹かれるとい
う姿を通して、イデアへの懐古的憧憬をも語ろうとした作品でもある。更に私なりの
意見を述べるなら、古代ギリシアの男達の少年愛も、成長して大人の男になって失っ
てしまった、可愛らしく美しい若い自分への懐古的憧憬の産物ではないかと、この作
品を読んで思ったのである。若い頃に持っていた要素の方を今の自分より美しいもの
だと考える根底には、結局はそれより更に遡り、この世に生まれる前にいたイデア界
の人間により近いためではないか。
以上のことを裏付けると思われるソクラテスの台詞を、順にいくつか挙げてみよう。

 「欲望をもつものは、自分に欠けているものを欲するものだ。違うかね?」
 「ところで、およそ欠けたところのあるものとは、もともと自分のところにあった
ものを奪いとられた結果、それを欠いたものになったのだ」
 「それでは、欲求も、愛も、欲望も、もともとは自分自身のものであったものに向
けられることになるらしいね。・・・」

限りなく美しく永遠なイデア界の善は、現世の俗と時間によってすり減らされてい
く。
このように考えていくと、当時のギリシアの男達や、自らも少年愛者だったというソ
クラテスの姿を通してプラトンがイデア論にさらなる確信を持ったのも納得いくよう
に思う。もちろん、プラトン自身もそうだったのかもしれないが。ちなみに『リュシ
ス』という作品は、上記の論が交わされた後、その前に展開された論との矛盾からプ
ラトン作品ならではの袋小路へと迷い込み、結論の出ないまま終わる。前に展開され
た論とは願望的憧憬論であり、大雑把にいうなら結局人は自分に無いものを求めて友
とするのか、かつては持っていたのに失ってしまったものだからこそ友とするのか
(あるいはどちらでもないのか、両方か?)という問いへの答えが保留されたまま終
わるのである。
余談だが、ギリシアの文化と日本の文化には、自然の化身としての多神教や、虫の声
などの自然の音を風雅と思う気持ち(西欧にはない考えである)など数々の共通点が
挙げられているが、このような「懐かしい」という気持ちへのこだわりの強さも、ま
たその一つなのかもしれない。
最後に、『リュシス』に登場する印象的なソクラテスの「よきもの考」を紹介しよ
う。

 「じっさい、美しいものというと、なにか柔らかく、すべすべして、つやのあるも
ののように思われるが、だからまた、つかもうとしてもすぐにわれわれの指の間から
すり抜けて、どこかへ行ってしまうのだろう。・・・」 


4.エロスの充足と幸福
 憧れていたものや場面が実際に自分のものになることは、たいへんな充足感と幸福
感をもたらす。しかし、1章・2章で少し触れたように、手が届かない、またはもう
戻らないからこそ憧れるものや、手に入れた途端に憧れではなくただの現実になって
しまうものもある。

 仏文学者・饗庭孝男のエッセイ『石と光の思想』に登場するエピソードである。著
者はオランダの美術館で、ずっと憧れていたフェルメールの絵を自分の目で見る。

 「私は、『デルフト風景』と『ターバンを巻いた少女』の前に長い間、あくことも
なく立っていた。時おり、年をとった守衛が、そんな私に微笑を投げかけながら傍を
とおりすぎた。~(中略)~
私は幸福だった。そうした時、一瞬、このような絵を毎日見ることの出来る守衛の幸
福を私のそれと比較してみた。私はひたすら羨望した。だが、それも束の間の心のゆ
らめきであった。私はそうした憧れをたちどころに打ち消した。「美しいもの」「よ
きもの」には別離を告げねばならぬ。人は憧れの地に住むことは出来ない。しかし、
こうした別離の方が、それらを一層深く所有することになるだろう。~(中略)~
この世で、かりそめに、生きているあいだ、ほんの一、二回しか出会うことの出来ぬ
「よきもの」、それはどれだけ深く私達の魂に目に見えぬ形でつきささっていること
であろうか。稀な幸福とは悲劇的なものであり、あえて言えば、幸福とは悲劇的なも
のに外ならないのだ。幸福とは、そうしたイロニックな形でしか存在しえぬものなの
である。」

例として挙げたい作品は他にもたくさんある。
映画『ニューシネマパラダイス』で映画館の男が主人公の少年に語る話。ある青年が
恋をしていた女性に想いを告げると、彼女は100日(?)間毎夕、窓の下に自分に
会いに来てくれたら、最後の日に自分も窓の下へ出ていってその想いに応える・・・
という約束をして彼の情熱を試そうとした。青年は約束通り、雨の日も風の日も、ほ
んの束の間窓から覗いてくれるだけの彼女に会いに出掛けた。彼女もその情熱に打た
れ、彼を愛せるという確信を持った。しかし本当に最後の日になって、今日ついに想
いが遂げられるというその日になって、彼は途中で引き返してしまう。

パウロ・コエーリョの『アルケミスト』という小説では、旅をする主人公の少年が旅
の途中で敬虔なイスラム教徒の老人に出会う。メッカへ巡礼に出掛けることを夢見
て、店を開き何十年もやってきた。やがてメッカに行くのに十分なお金が貯まって
も、老人は巡礼の旅には出発しなかった。どうしてメッカへ行かないのか、と少年は
老人に問う。

 「メッカのことを思うことが、わしを生きながらえさせてくれるからさ。そのおか
げでわしは、まったく同じ毎日をくり返していられるのだよ。~(中略)~
わしはただメッカのことを夢見ていたいだけなのだ。わしはな、砂漠を横切ってあの
聖なる石の広場に着いて、その石にさわる前に七回もそのまわりをぐるぐる回る様子
を、もう千回も想像したよ。わしのそばにいる人や前にいる人、その人たちと一緒に
語り合い、祈る様子も想像した。でも実現したら、それが自分をがっかりさせるん
じゃないかと心配なんだ。だから、わしは夢を見ている方が好きなのさ」

これらはすべて、願望的憧憬への物理的距離感を克服したにも関わらず、敢えて心理
的に距離感を保とうとした人たちのエピソードである。このような実感は、誰しも一
度はもったことがあるかもしれない。フェルメールの絵やメッカのように、それがモ
ノである限りはその「自己満足的充足」は有効な手段かもしれないが、ニューシネマ
パラダイスの場合のように人間が相手だった場合、それは悲劇を呼ぶことにもなる。
「幸福とは悲劇的な、イロニックなものである」という説はこういう意味なのかもし
れない。憧れが現実のものとなることは幸福なことだが、それは実現されたことに
よってやがては憧れでも幸福でもない、日常になってしまう。それでも手に入れたい
幸福と、そうなってしまうのなら手に入れない方が良い幸福と、どちらを想う気持ち
も「憧れ」には変わりない。追い求め、手に入れるために様々な努力をすることから
得るエロスと、手に入らないからこそ輝いて見える、そういうものを想う気持ちから
得るエロスとは、憧憬が人に与えるエロスの二面性である。
「夢は見るだけじゃ始まらない」という意見と、「夢は夢だから美しい」という意
見、どちらも夢=憧憬の本質であり、どちらも紛れもなく、人と夢=憧憬との適切な
関わり方なのである。


(おわり)
by pmcblog | 2002-05-25 23:45 | レジメライブラリ
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