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【レジメ】自由は神経症を生み出すのか?


自由の意識と心の病 (2003.12.27.PMC.山竹伸二)
神経症は自由の弊害か?

近代社会の到来によって、人間は自分がどのような存在であり、どうあ
りたいのかを考えながら行動する可能性が広がった。しかし、実際には社会のルー
ルや価値観と折り合いをつけながら行動する場面のほうが多く、自分の欲望を抑
え込むことも少なくない。そして、社会の価値観に合わせたふるまいをしている
うちに、自分の気持ちに分裂感が生まれてくる。自分が本当はどうしたいのか、
なにをすべきなのか、よくわからなくなってしまうのだ。こうして、自分の思い
どおりにいかない憤り、不全感は、本当の気持ちは社会のルールや価値観によっ
て抑圧されている、そんな考えを生みだすことになる。現在でも、「本当の自分」
や「無意識の抑圧」が重視され、近代社会は身体や感情を抑圧してしまった、そ
のために神経症が生じるようになった、という考え方は根強い影響力をもってい
る。

フロイトは『文化への不満』において、神経症の原因が文化による欲望の抑圧だ
と考え、社会からの要求が個人の欲望を抑圧し、神経症をもたらしたのだと述べ
ている。そのため、多くの人々は文化に対して不満を抱くようになったというの
だ。実際、個人の欲望を抑圧した社会規範を憎み、意識より無意識が、理性より
感情や身体が大事だと考え、理性的な思考は感情を抑圧し、自由を奪うものだと
考える人は少なくない。現代社会のなかで「自分探し」が叫ばれたり、「本当の
自分」が求められるのも、こうした実感が背景にある。だが、こうした考え方は
正当なものだといえるだろうか?


近代社会の理性と自由

近代社会は自分の判断によって行動すること、自由に人生を選択する可能性が
広がってきた時代であり、相互の自由が尊重され、お互いの自由を守るために、
合意に基づいたルールが尊重され始めた時代である。近代以前のヨーロッパでは、
宗教的な価値観や社会のルール、役割に従うことは絶対的で変更不可能であった
し、自分の自由な意志で生き方を選択することはできなかった。しかし近代にな
り、自分の意志で行為を選択できる条件が整ってきたことで、人々は自分の行為
を内省し、自分がどうしたいのか、どうすべきなのかを深く考えざるを得なくな
った。つまり、自己の内面を見据える視点が形成され、自己意識、自由の意識が
強くなってきたのである。

自分の行動を内省することは、自分を第三者の視点から客観的に見つめるよう
になる、ということでもある。それが自己意識を成立させるのであり、近代社会
は第三者の視点が強くなった時代なのだ。ヘーゲルは『歴史哲学講義』のなかで、
近代になってプロテスタントが内面性を重視したことは、人間が自由を実現して
いく上で必要な過程であったと述べている。自由を手にすることは、自分で決め
られるということであり、それは自分がどうしたいのか、自分で考えることで可
能になる。自分の内面を意識し、自分を客観的な視点で考え直すこと、それは人
間が自由を実感するための基本的な条件なのだ。


現代思想の近代批判

近代において、自分がどうあるべきか、どのように行為すればよいのかを、自己
の内面に深く問いかけながら生きるようになったことを、私は望ましいことだと
思う。自分なりのルールや価値観を形成し、自分の意志で人生を選べるようにな
ったのだから、これは自由な社会が実現されるためには不可欠なことだったはず
である。しかし現代思想の多くは、近代的な思考こそが抑圧的な社会を生みだし
たと主張している。構造主義やポスト構造主義においても、理性的に自己を捉え
ることには限界があるのだと、この問題を否定的に考えている。私たちには意識
的に捉えきれない部分(無意識)があり、意識や理性を過信すれば、自己中心的
な判断に陥って、過ちを犯すというわけだ。

フーコーはパノプティコンという監獄を例に挙げて、近代社会が自己監視を強化
する社会であったことを指摘している。近代社会では自分自身を監視する視線を
意識することで、誰も見ていなくてもルールを守り、自己への監視が強化される
ようになった、自己の内面に自己を監視する他者の視線を作り出したというのだ。
そこに、近代では神や監視者の権力が個人を内面から支配するようになった、と
いうような近代批判が生みだされる。神、監視者といった他者たちの命令(ルー
ル)を内面化し、それを自分が行動する際の基準にすることは、権力が個人の内
側に入り込むということでもある。つまり、近代において自己を内省する第三者
の視点が強くなったことを、私は自由を得るための条件だと考えているが、現代
思想ではこれを権力の内在化と考えて批判しているのだ。

現代思想は意識や理性、主体性を近代の特質と考え、その限界を示そうとして無
意識や身体性を強調する。フーコー、ラカンといった構造主義者たちも、意識の
内省、理性的な思考には限界がある、それは無意識の構造によって規定されてい
るという。いまやデカルト、カント、ヘーゲルらの近代哲学は、意識や理性を中
心にした哲学として厳しい批判にさらされている。近代思想が掲げた理性と主体
性を批判し、その反対概念である感情や身体、無意識を重視することは、現代思
想が口を揃えたように主張してきたことだ。その理由は二つ考えられる。まず一
つは二〇世紀の世界大戦が近代化の結果だと見なされたこと。もう一つは、近代
社会のもたらした自由の意識が、必然的に自由の限界をも感じさせたこと。


自由の本質と神経症

第三者の視点で自己を意識し、自己を了解しつつ可能性を思い描くこと、それが
できなければ最初から自由の意識などあり得ない。近代のもたらした理性的な思
考がなければ、そもそも自由の意識は成り立たないのである。確かに社会のルー
ルは私たちの自由な行動や欲望を制限する面があるし、世間的な価値観によって
自由が損なわれていると感じることも多い。しかしそれは私たちの安全を保障し、
また社会の役割の中で認められる悦びをも提供しているし、実際にはかつてない
ほど自由の確保された社会に生きている。自由に自らの生き方を選び、その可能
性のなかに生の意味を見出すこともできる。それは近代以前の社会では考えられ
ないことだった。だからこそ、自分の思いどおりにいかないとき、私たちは不遇
感を抱き、些細な制約でも過大視して不満を感じてしまうのだ。

それに、自由とは自分の頭で考え、自らの意志で判断し、選び取ることであり、
そこには様々な葛藤や苦しみ、不安もつきまとっている。自分で選び取ったこと
が失敗であったとしても、最早それは誰の責任でもなく、自分自身の責任である。
こうした自由の重責に耐えられない人間は、すぐに自分の外側に強い人間、権威
のある人間を求め、その人間にすべての責任を委ねつつ、従ってしまうことにな
る。フロムは『自由からの逃走』の中で、自由が孤独や不安をもたらすこと、そ
のために自由の重責を外側の権威に委ねやすいのだと主張している。人間は自由
であるがゆえの不安から、自ら考えて行動する自由を手放すというのだ。人間は
自由の重荷を逃れて他人任せになりがちだが、一方ではそこに不自由を感じてし
まう。本当は自分の意志で判断できる場面でも、人に嫌われないために、認めら
れるために、他人の指示どおりに行動してしまう。だが、それでは自由を感じら
れないため、そのいらだちは社会への不満や神経症という形であらわれる。

人は誰でも自分が満足のできる状態を、つまり幸福を求めているのだが、それは
衝動的な欲望の満足だけで得られるものではなく、他の人から愛され、認められ
ることを欠いてはありえない。そのため、私たちは衝動的な欲望を我慢して、他
者に認められるような行動、愛されるような行動を選び取る。自分の行動に対す
る判断を他者の手に委ね、他者に同調することがあるのも、そうした欲望のあら
われなのだ。そこには愛されなくなること、認められなくなることに対する不安
があるのだが、この不安の理由はなかなか自覚できないので、強い不満を生みだ
してしまう。そしてその葛藤のなかで心のバランスが崩れるとき、神経症が生み
だされる。だとすれば、近代社会が神経症という弊害をもたらしたという説は、
ある意味で当たっているのかもしれない。しかし、自由な社会になったこと自体
が悪いわけではないし、私たちはいまさら自由を手放すことはできない。むしろ
自由の意識を確保することこそ、心のバランスを保つために必要なのである。
by pmcblog | 2003-12-27 15:54 | レジメライブラリ
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